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Toranomon Hills,
Tokyo

宇佐美雅浩 広島における時間の瞑想

2025.09.03

石谷治寛(広島市立大学芸術学部美学・芸術理論)

宇佐美雅浩の写真は、複数の生の時間を瞑想させる特異な試みである。

「Manda-la」シリーズでは、世代を超えた住民たちが、街を象徴する場所に集い、作家によって写真の露光のためのシャッターが押される。そこに現れる世界は、曼荼羅のように中心から対称的に構成される空間に広がり、異なる人生の時間、個々の鼓動のリズムが定着される。すでにここには、さまざまな時間が交錯しているが、本エッセイでは、現代の写真を通した美術表現のなかに宇佐美の試みを位置づけながら素描しておきたい。

中心となるのは、人生の物語を持った人物である。彼らについては事前に入念なリサーチが行われ、その人生史が物語の中心に位置する。しかしここで撮られる場面は、人生の再現や模倣やパロディや欲望を投影した幻想ではない。1980年代に主流となるステージド・フォトグラフィという美術写真表現は、19世紀末のマーガレット・キャメロンのようなコスチューム・プレイを通して幻想世界を現した写真史を参照しながら、写真表現に伴うジェンダーや人種のステレオタイプを暴いた。たとえばエレノア・アンティンをはじめとして、シンディー・シャーマンや森村泰昌、ジェフ・ウォールやインカ・ショニバレといった美術家によって発展させられてきたのは、ナルシシスム的な自己表象を素材として、その異装の反復のなかに自己同一性の差異やずれを描き出すことだった。宇佐美はむしろ、オランダの集団肖像画のように、集団のなかの共同性や連帯の失われた残余を捉え直す。また、父と子キリストと精霊の光を中心に使徒が集い、その信徒や民衆が集う中世後期以来の宗教画(たとえばヤン・ファン・アイクによるゲントの祭壇画など)の異時同図を思わせるところがある。

実際の街の景観を映画の戸外スタジオのように舞台背景とした撮影のために、エキストラたちは衣装に着替えてメイクしてポーズして、撮影を待つ時間もある(これは動画として記録される)。フランスの写真家JRは、ポートレート写真をグラフィティのように都市の景観に拡大して掲示することを通して、街を構成する住人たちの姿を可視化させてきたが、「サンフランシスコ・クロニクル」や「京都クロニクル」のように、街の多様な仕事や労働に従事する人々をポージングさせて撮影し、それをコラージュして、街に生きる住人のパノラマを生み出している。1970年代にスザンヌ・レイシーなどが参加したLAの「ウーマンズ・ビルディング」では、可視化されにくい女性たちのさまざまな表現発信の方法が模索され、レスリー・ラボヴィッツは《マスメディアの女性イメージ》(1979年)で、それらをコラージュした。参加を通して共同体の集合性を提示する、社会参与芸術はこの時、活況を呈した。こうした百科全書的に異なる観相(フィジオグノミー)を一覧しようとする18世紀以来のパノラマの手法とも、宇佐美の試みが異なっているのは、コラージュに頼らず、撮影までに至る異なる生のリズムが、撮影のひと時のあいだに捉えられるからである。その観点からは、人々の心臓の鼓動の録音を集めたクリスチャン・ボルタンスキーによる《心臓音のアーカイブ》(2008年〜)や、個々に異なる呼吸のリズムを計測し、発光ダイオードでカウントする宮島達男の試みも参照できる。1999年のヴェネチア・ビエンナーレで発表された《メガデス》(1999年)は、一瞬の死の時間を、生のリズムとして想像し直すための瞑想のための装置である。ここでは、あたかもシャッターを閉じるかのような一斉の暗転が、生のリズムを再開させる。一瞬の闇を通した瞑想のなかに少しずつ光が灯されるのだ。

ただこうした表象不可能性の美学とも異なる、宇佐美の美学にとって、広島がモチーフとなるのはどのような意味があるか、とりわけ《早志百合子 広島 2014》と「失いかけた記憶のタイムカプセル」シリーズに焦点を合わせたい。

宇佐美も参照したという東松照明や石内都など、広島の被爆に関する写真、美術表現や被爆当事者による創作などについてはさらに広い議論が必要だが(被爆直後に撮影された写真が今年、東京でまとめて展示された)、ここでは簡潔に、中国新聞の記者・松重美人の記録写真を思い起こしておきたい。よく知られているように、萬代橋の熱線でできた影は、原爆の光線の威力を物語るとともに、原子力による可視・不可視の閃光を、写真撮影のフラッシュや感光のような隠喩として捉える視点をもたらした。イヴ・クラインはこのことから着想して、「人体測定」のシリーズを通して、戦後における死の影から、生の痕跡への転換を試みた。

また、被爆直後に撮影され残された5枚の写真のうち、御幸橋西詰に急設された治療所で手当を受ける人々の写真は、被爆者の最初の写真として知られている。このなかに元被団協委員の坪井直さんを含む生存者の姿も写し出されていた。こうした広島と写真の関わりの文脈のなかで宇佐美の試みの写真史的な意義を考えるべきだろう。坪井さんは宇佐美作品の参加者のひとりとして、再び写真の被写体となったのだ。

広島の企画画廊であるgallery Gで行われた坪井直さんの追悼展で《早志百合子 広島 2014》(2014年)を見ることができたのは、著者の記憶に残っている。早志百合子さんは、被爆した105人の子どもの作文を集めた『原爆の子』(1951年)で知られる被爆者であるが、彼女を中心にしながら右側には黒い喪服で横たわる人々と左手には緑の芝生の上を這う白いオムツを履いた赤子たちが対比されて、死と生の脈動や異なる世代の生の時間を上演する。重要なのは、当時の状況を再現表象するのではなく、イメージは過去と未来を含み込んだ現在の生として定着されることである。被爆を象徴する原爆ドームの隣には、米軍によって実験記録用に撮影されたきのこ雲の写真が対比されている。きのこ雲のイメージは冷戦期にわたって、核の恐怖と威力を象徴するキッチュな崇高美として繰り返しプロパガンダに用いられてきたが、被爆者の実際の生に対する関心を麻痺させ眩ませる煙幕のようなものとして受容されてきた。宇佐美の写真はそれに対抗して、その痛みや傷を強調するわけではない。しかしながら、その痛みを抱えながらも生き延び、生を高らかに誇る人々のプライドと微笑みを讃え、一瞬でも人々が出会い、ひとつの場所で共存することを祝福する。当事者との丹念な信頼関係を築きながら、自らの記念写真として、家族を超え、より広い地縁のなかで作り上げられるイメージなのである。

とりわけ「失いかけた記憶のタイムカプセル」シリーズが感動的なのは、「トラウマ後の成長」の時間が、出来事の後を生きる人々の時間の感覚とともに想起されることである。このシリーズは東広島での新作展示のために撮影されたが、その中に広島のシリーズに関連する作品も制作された。早志百合子さんの時計は、自分好みのパーツを選んで10年前に特注した時計である。19世紀末以来、近代の時間は、正確に刻まれる標準時間によって管理されるようになったが、早志さんにとってその時間のあり方は、自らの選択や意思によって選びとらなければならない。そうした被爆生存者からのメッセージが感じられるようだ。時計のイメージは、17世紀の静物画では、命を寓意し、壊れた時計は、「メメント・モリ(死を思え)」という訓示になった。被爆者の遺物を撮影した土田ヒロミにとっても、8時15分を指して止まった時計は、その時計の物語とともに、被爆による死と生の時間を想起させるものであった。土田の写真で注意すべきは、必ずしも撮影されたすべての時計が同じ時刻を指しているわけでないことである。その時間の差や遅れのなかにこそ、むしろ生存者の生と死の時間が刻まれているのだと感じられる。

袋町小学校にある、生存者たちが家族にあてたメッセージが書き込まれた黒板に着想を得たフランス人美術家ジャン=リュック・ヴィルムートは、参加者が黒板に自由に落書きできる作品《カフェ・リトルボーイ》(2002/2015年)を制作し、そこには、8時15分で停止した時計がかけられた。さらに福島による原子力事故の後には、8時15分、11時2分、2時46分で止まった時計を展示した。ここには死と時間感覚の麻痺が表されているように思える。さらに広島賞を受賞したアルフレッド・ジャーは《広島、長崎、福島》(2019年)で、秒針のみが動く三台の時計を並べた。2つの同時刻の時計を並べて恋人や親密さの儚さを喚起するフェリックス=ゴンザレス・トレスから、異なる映画の時計の映る場面が時刻と同期するよう編集されて宙吊りされ続ける時間を刻むクリスチャン・マークレイまで、時計やそのイメージを通して、現代の死と生の時間性を表現する作例は枚挙にいとまがないが、宇佐美の「失いかけた記憶のタイムカプセル」シリーズは、出来事の時間を特権化することによる想像力の麻痺や無感覚を表明するのではなく、被爆後を生きた人々の異なる時間性を、時計の物質的経年劣化や時計の由来にまつわる物語を通して、個別の生の時間性を記念する点で、土田の写真を継承している。

《失いかけた記憶のタイムカプセル 坪井直(1925-2021年)広島》は、そのデザインの時計から持ち主の端正な人柄を想像させるとともに、クオーツ社のクロノスというヴィンテージ時計であることも興味深い。クロノスは西洋の図像学では、矢のように流れる時間と死を寓意した。他方でギリシア神話では黄金時代の農耕神として神々の父でもあった。いずれにせよ宇佐美の時計を捉えたシリーズは、そのデザインとそれが制作された異なる時代の時間感覚とともに持ち主による愛着や経年劣化を含む、さまざまに異なる時間性が示唆されることによって死を超えた生を瞑想させる。

放射性廃棄物の人体への有害性が低減するまでに10万年かかると言われる。他方で、仏教において弥勒菩薩が現れるのは、56億7000万年後に悟りを通した救済の時である。宇佐美の曼荼羅は、出来事と出会いの時間の刹那を切り取りながらも、撮影するひと時のあいだに過去と未来を顕現させる。そこを生きる人々の生とユーモアを通して複数の異なる非同期的な時間を瞑想させるのである。