THINK

無意識と無作為

2024.01.04

現在、私は長野県松本市にある「松本市立博物館」のアソシエイトプロデューサーをやっておりまして、頻繁に松本へ行きます。荷物が多いので、必ず車で向かうのですが、平均片道3時間のドライブで、結構疲れます。
でもその時間が宝の山なんですね、、、、

車を運転して1時間くらい経つと、体が順応してきて、運転に関する動作は、無意識に近いものになってきます。
もちろん完全な無意識ではなく、脳の働きが気にならずに継続しているという表現が近いですね。

路面の情報を感じ取り、標識を見て、背後の状況を見て、予測をし、周囲と同調するのか?追い抜くのか?の決定をして、ブレーキを踏んだり、アクセルを踏む動作を繰り返している。
そんな大量の動作を、無意識に反応して行なっていることに気が付きます。
多くのドライバーはみんなこれをやれているのです。

助手席に同乗者がいる場合は、会話をしながら、この無意識反応をこなしている。
一人で運転していても、デザインのアイデアを考えたり、他の車のデザイン観察をしながら、この無意識反応をこなしている。

なんだか人間ってすごいなと、勝手に感じてます。

そもそも人間の無意識反応は、生活の中にもたくさんあって、例えば、食事中に食べ物だけを噛んで、舌を噛まないことも、実はとんでもないことのように思うのです。(たまに噛むけどw)
噛んで「痛い」と感じて舌を引っ込めるのは「脊髄反射」ですが、噛まずに歯の噛み合いから逃げ続けていることは、無意識反応なのかなと思います。

無意識に関して、反応的なことを書いてきましたが、何かを施した結果に無意識が発生することもたくさんあります。

書道を荒っぽく書いた時に、飛び散る墨跡は、無意識にできたもの。
陶芸で、釉薬によって焼き色が変化するのも、無意識にできたもの。
コーヒーにミルクを垂らした時の美しい渦巻きも、無意識にできたもの。
割れた茶碗を金継ぎで修復した金のラインも、無意識をなぞったもの。
石を投げ入れた湖の波紋も、無意識にできたもの。
上げればキリがないけど、実は、どれも鑑賞して愛でるのにふさわしく、美しいものばかりだったりします。

意識的には作れないもの。
そこに人は美を見出したいのかもしれません。
八百万の神を信仰する日本人の根源的自然観は、人レベルで生み出せるものよりも遥か高みにある造形物・現象を、無意識のうちに求めていると感じます。
外連味(けれんみ)や作為があると、低俗なものと捉えるのです。

以前、なにかのTV番組で、日本に来てる外国人に、日本の良さをインタビューしていたのですが、その中の答えに、「無作為」という言葉があって、かなり衝撃を受けました。
「無作為」という概念が、海外にも広まっていて、日本の代名詞的に感じている人がいることに、嬉しさとともに、危機感も感じました。
その危機感とは、日本人が「無作為」を手放してしまっている感が否めないということ。
それを理解できていない日本人はとても多いと思います。

私は、この先の未来に向けて、人の表現のポテンシャルを高めていきたいと思っていて、それを、いまの自分が持っているポジションのなかで探っていきたい。

「無意識」と「無作為」は、基本的には異なる所作ですが、この二つは、連動してこそ、新しい価値観が生まれるような気がしています